”田舎”と言ったときの、それぞれの"田舎"の勝手な分類

田舎や都会、最近色々な話を読む。それぞれに面白い。

ただ、少しズレが気になる。2つの軸が混在している気がする。

環境と地理だ。

 

わかりにくいので、環境から話そう。

店長がズバッと定義している。(都会と田舎の比較の話が出るととりあえず絡みつく

どこに行っても知っている人がいる。どこに出かけても「あそこの店長が来てる」と認識されうる。

つまり、基本的に知っている人しか居ない、知っているものしか無いのが"田舎"だ。

 

では対義語たる"都会"はどうだろうか。コレも簡単だ。

どこに行っても知らない人しか居ない。どこに出かけても通行人Aのままで居られる。

つまり、基本的に知っている人が居ない、知らないものだらけなのが"都会"だ。

 

店長はコレを『最大の違い』と表現しているが、これは"田舎"と"都会"の定義で良いと思う。*1

 

では、地理とはなんだろうか。これはつまり、(「私が住んでるところは田舎だよ」を言う立場から)の話が近いのだろう。

徒歩圏内にコンビニがある、電車がかなりの頻度で来る、都心に電車で行って帰ってこれる。これは"都市圏""郊外"だ。都心ではないかもしれないが、それに付随する場所。

そこよりも距離があれば、"地方""僻地"となっていくだろう。

 

すると大分スッキリと読み解ける。

 

たとえば、この(都心住まいの価値とは何か)の場合、chnpkさん"都市圏""都会"と、"地方""都会"との比較を話している。これは地理の話だ。環境ではない。

つまり、イオンとは地方に進出してきた"都会"であり、無機質さは"都会"そのものだ。

商店街の売り子さんがそっくりそのままイオンに入り、「あらchnpkちゃん、今日は買ってかないの?」と声をかけられ、次の日職場で「あそこのソフトクリームならミントがオススメですよ」と挨拶されるなら、そのイオンはどんなに合理的でも"田舎"だ。

 

一方、(地方都市という地獄 あるいは関東圏の「私が住んでるところは田舎だよ(笑」が如何に残酷かについて)では、環境の話が主だ。ただ、chnpkさんのエントリの地理に対して反応している。

mizchiさんが怨嗟の声をあげているのは環境に対してに見える。『買える距離に生きている』、『都会に行こうと思えば行ける』と書いているが、これは地理的な距離よりも環境的な要因で『田舎には選択肢がない』ことへの苛立ちに見えるのだ。

だから、アクセスの便をもって『機会が与えられている』と表現してしまうと、ズレが出る。

 

まさにそのズレが先に上げた(「私が住んでるところは田舎だよ」を言う立場から)の話であり、これは地理上における渇望の話をしている。mizchiさんの苛立ちが理解されているように見えない。

「環境的には"田舎"で無いはずだ」という苛立ちが、「でも地理的に"都心"より離れてるし」という返答になってしまう。

都心、都市圏、郊外、地方、僻地の順に並べた時の、郊外における都心への憧れを語ってしまうのは、ズレていると思うのだ。

 

既に上げた通り、店長は鮮やかに"都会""田舎"とを表現してみせた。

両津勘吉の居る浅草の商店街は都市圏ではあっても"田舎"であり、pha氏のでかけた先(田舎はオープンワールドRPGみたいだった - phaのニート日記)は、地方ではあっても"都会"だったのだ。人が地方の"田舎"を語るには、周りの人が全て知っている状態になるまで住んでからでないと語れないのだ。

 

その意味で(大阪「・・・・・。」)は、環境と地理とが複雑に絡み合った味わい深いエントリになっていると思う。

地理的には大都市でありながら、環境的には田舎でもあり、しかし東京という日本の"都心"に対して憧れとは違う何か独特の感情を抱いている。

 

この分類であれば、(地方都市に住んでヨソ者=「2級市民」として扱われた違和感。)で、もりくちさんがしばらく住んでいたA市は(彼にとって)どういう立ち位置だったのか定義できる。

もりくちさんは"都会"に住むことを望んだのだと思う。"田舎"に住み、その煩わしさも含めて飲み込む合理性は見いだせず、でも"都会"として便利になってほしいと何かをしようとした。その結果、"田舎""都会"の流儀が通用しなかったという話に見える。

一級市民や二級市民という単語を、地元市民と仮住市民と置換して読んでみれば、違和感が減ると思う。言っている発言が正しく合理性があっても、何年も住み、これからも何十年も共同体として活動していく人たちが、旅人の提案を受け入れるわけにはいかないのは、ある程度合理性がある。(もりくちさんの今のマンション生活は、おそらく"都会"の中で"田舎"を作り上げる作業なのだと思う。)

ただ、定義上"田舎"の中に"都会"を受け入れさせるのは無理なのかな、とも思う。"都会"に居る知らない人を知ることで"田舎"に近づけることはできても、知らない人がいる"都会"の環境を"田舎"に受け入れさせるのは、相当に困難なはずだ。

 

 

都会と田舎との話にまつわるエントリを読みながら、自分勝手に定義し、分類をしてみた。

もしかしたら何の意味もない軸分けだったのかもしれない。

でも、誰かが「俺の住んでるところは田舎でさ」といった時に、それが空気感で造られた心理的な牢獄による絶望を語っているのか、見える位置にぶら下げられるがゆえに飢え続けた三大都市圏への憧れを語っているのかを見極めることは、議論を発散させず度数分布表の区切りについて語ることに繋がると思う。*2

 

だれしも"田舎"への思いがある。

それが、心地良いマフラーの暖かさなのか、真綿で首を絞める圧迫感なのかは、雪降夜に語るにはふさわしい話かもしれない。

*1:地元、旅先という言い方を好む人もいるだろうから、適宜置換して欲しい。旅の恥はかき捨てと言うのは、旅先だから普段しないことをするという意味の諺だ。逆に言えば、旅先でない地元では、恥ずかしい言動は出来ない/知り合いばかりであるという事を示しているのだ。店長にとって横浜は、程々に旅先なのだろう。

*2:そも田舎とは都市の対義語として生まれ、多分に心理的なものだ。塀の外は田舎、それこそが都市の妙なプライドであり、その裏返しとして都心以外は皆田舎という認識が生じうる。しかし、それら心的な田舎にも様々な区分が存在し、都心からの物理的な距離やその生活圏の不便度合いによって、「その程度の田舎で田舎ヅラしないで欲しい」という不協和音を発することになる。

これは三大都市圏からの距離やコンビニ件数などを勘案して数値化しても解決しない。なぜならば、これは心理的な問題だからである。人はその観測範囲において渇望や絶望を感じ、場合によって(日本的な基準において)明らかな僻地であっても"都会"足りえるからだ。絶対的な基準は当事者には意味を成さない。まさに「サバンナで同じ事言えんの?」である。